第6回 高精度/高安定への飽くなき追及が 水晶デバイスの「未来」を築き上げる

2013年3月

第6回 高精度/高安定への飽くなき追及が 水晶デバイスの「未来」を築き上げる

岡野庄太郎氏は、進学した高校のラジオ部で無線技術に初めて触れた。鉱石ラジオや並4ラジオ、スーパーへテロダイン・ラジオの原理や作り方を学ぶ。戦後、間もないころ。街にはまだ、敗戦の影が色濃く残っている。しかし、岡野青年の瞳は、ひかり輝いていた。遠く離れた人の声を運ぶ小さな箱が、明るい未来を感じさせてくれたからだ。時が過ぎるのも忘れるぐらい打ち込んだ。そのため無線技術を習得するのに、そんなに長い時間は掛からなかった。

その後、理工系の大学(電気通信大学)に入り、無線以外のエレクトロニクス技術も学ぶ。そのころには、「ラジオを作ってくれ」「電蓄(電気蓄音機)を組み立ててほしい」という近所の人の依頼がひっきりなしにあったという。街で評判のラジオ青年だったわけだ。

そんな同氏である。「大学を卒業したら、東京芝浦電気(当時、現在の東芝)か、国際電気(当時、現在の日立国際電気)に入って、無線技術に思い切り取り組むんだ」と信じて疑わなかった。しかし、である。大学4年生になったある日、研究室の指導教官から呼び出しを受ける(図1)。そこで、「日本は電話事業の構築が急務である。東洋通信機に入って、この分野で力を発揮してみないか」と強く働きかけられたのだ。
「東洋通信機?」。あまり詳しいことは知らない会社だった。「でも、社名に通信機が付く。無線技術に関する仕事ができるかもしれないな」。そう気を取り直した同氏だったが、次の瞬間、指導教官から思わぬ言葉が飛んできた。「東洋通信機に入って、水晶デバイスを極めてほしい」。

もう何がなんだかわからなかった。無線技術をやりたかったのに、いきなり水晶デバイスをやれ。大学で、水晶デバイス研究の大家である東京大学の高木昇教授の講義を受けたことがあったが、水晶のことなど、ほとんど何も知らない。しかし、指導教官のたっての願いだ。無下に断るわけにもいかない。不承不承ながら、指導教官の働きかけを受け入れた。


図1:大学時代の岡野氏(左から3人目)
当時所属していた研究室にて、指導教官や同級生と撮影した。


桜満開の昭和29年(1954年)の4月。同氏は重たい足を引きずりながら、東洋通信機の水晶部がある川崎へと通い始めた。

世界で活躍できるかも知れない

入社してから約半年経ったある日のことだ。日本電信電話公社(当時、現在のNTT)の電気通信研究所で、指導教育実習を受けることが突然命じられた。目的は、ワイヤーマウント方式*1)を採用した水晶振動子に関する技術を習得することにあった。

ワイヤーマウント方式を採用した水晶振動子は、当時の電話システムに欠かせない構成要素だった。つまり、この仕事は東洋通信機にとって極めて重要である。そんな責務を託された岡野氏だったが、まだ無線技術への未練を断ち切れずにいた。そのためか、あまりやる気が出ない。モヤモヤとした気持ちを抱きながら東京都の武蔵野市へと向かった。

注1)ワイヤーマウント技術とは、低周波の輪郭振動子において高いQ(共振の鋭さ)を実現するために、東京大学の高木昇教授の指導の下、日本電信電話公社(現在のNTT)の電気通信研究所で昭和27年(1952年)ごろに開発された水晶振動子の保持技術。

そこで水晶振動子技術開発室長の高原靖氏に出会う。高原氏は、東京大学出身の研究者で、水晶振動子の実用化開発では国内のトップを走っていた。取り組んでいたテーマは、ワイヤーマウント方式を採用した60k〜120kHz帯および400k~600kHz帯の水晶振動子だった。これらは、4MHz同軸ケーブルを使った電話システムのチャネル・フィルタに欠かせないものだ。

当時の電話網は、一度に多くの情報を伝送するため、多重度を高めることが求められていた。そのためには、急峻な特性が得られるチャネル・フィルタが不可欠である。そこで世界中の研究機関において、水晶振動子を使ったチャネル・フィルタの開発が先を争うように進められていた*2)。先行していたのは欧米の研究機関。しかし、日本勢も決して負けていない。高原氏によれば「水晶技術については、欧米との差はほんのわずかで、もう少しで肩を並べられる状況にある」という。つまり、この仕事で頑張れば、世界の檜舞台で活躍できる。岡野氏は、がぜんやる気になった。

さらに、東洋通信機の水晶部には、当時の日本には3台しかなかった米ヒューレット・パッカード社の周波数カウンタ装置が導入されていた。「こんな最先端の測定器がいつも使えるなんて・・・。こんなに良い環境はほかにはない」。

世界で活躍できるかも知れない。しかも、すごい測定器が自由に使える。それだけで十分だった。電気通信研究所に通い始めて数カ月。もう岡野氏は水晶技術の虜になっていた。「無線技術もいいけど、水晶もわりといいな」。東京にはもう冬が訪れていた。寒さのためか、行き交う人々の足取りは重かったが、同氏の足取りだけ妙に軽かった。

*2)チャネル・フィルタの実現技術は、水晶振動子を使う方式のほかに、高性能な磁性材料を用いたLCフィルタを使う方式もあった。日本では、東北大学の金属研究所において「ネフェライト」が開発され、これを採用したチャネル・フィルタが電話網に採用された。つまり日本とドイツでは、水晶チャネル・フィルタは主流にはなれなかった。ただし、米国や英国では、水晶チャネル・フィルタが採用された。

始まりは上司のお土産

岡野氏が水晶技術への取り組みを決心した当時、無線通信技術は飛躍的な進化を遂げていた。用途が拡大するにつれて、使用する周波数の高周波化が求められるようになった。

それまでの東洋通信機は、同社が特許を持つBTカットの水晶振動子を得意としていた。このカットは、同じ周波数であれば水晶板を厚くできるため製造しやすく、周波数温度特性がカット角度のズレに比較的低感度という大きなメリットもあった。しかし、守備範囲は低周波帯域であり、高周波化は難しい。高周波化のトレンドに乗るには、ATカットに切り替えなければならない。そこで、開発担当に命じられたのは、日本電信電話公社の電気通信研究所で水晶振動子技術の基礎を学んだ、まだ20代の岡野氏だった。

開発をスタートさせたのは、1957年のことである。まずは、ATカットの水晶板をこと細かく調べた。同氏がATカットの水晶板に惚れ込むまでにそう長い時間は掛からなかった。ATカットには多くの魅力があったからだ。大きく分けると五つ挙げられる。(1)周囲環境変化による特性への影響が小さい、(2)温度特性が3次曲線である、(3)水晶板の輪郭の状態による影響を回避できる、(4)振幅と歪みがゼロの場所があるため、水晶振動子を安定に支持できる、(5)面取り加工を施すことで特性が向上するため、不良率を下げられる、という五つだ。

ATカット水晶板の調査を念入りに進めていたある日。同氏の上司で、BTカットの発明者である依田博氏がお土産を携えて米国出張から帰ってきた。お土産とは、米国のJames Knight社が製品化していた、ATカット水晶振動子採用の1MHz周波数基準器である(図2)。「これで勉強せぇ」との一言を残し、依田氏は実験室を出て行った。


図2:James Knight社の1MHz周波数基準器
岡野氏が開発の参考にした1MHz周波数基準器である。日本水晶デバイス工業会(QIAJ)の保管資料。


白羽の矢が立つ

米国製の1MHz周波数基準器で研鑽を積んだ岡野氏に課せられた最初の仕事は、放送局の設備で使用する水晶振動子だった。周波数は550k~1605kHzと高い。もちろん、ATカットの出番だ。

その当時、放送局向け水晶振動子は、東洋通信機のライバル企業が担当していた。この水晶振動子は、下電極板を収めたケース(枠)に矩形状のATカット水晶板を入れて、その上部を円盤状電極で覆ったものだった(図3)。これを恒温槽*3)に入れて、何とか特性を確保していた。

この構造に大きな問題があった。ATカット水晶板の下側と上側とも、電極に固定されていない。下側は水晶板を乗せただけ。上側に至っては円盤状電極と水晶板の間のギャップ*4)を設け電界を介して信号をやり取りしていた。上側も下側もしっかり固定されていないため、振動や衝撃を与えれば水晶板は動き、特性が変化してしまう。振動領域の考え方が導入されていなかったため水晶板を固定できなかったからだ。しかも、温度に対して不安定な不要振動モードを除去できずにいた。従って、高精度を要求される用途には恒温槽の使用が不可欠だった。このため保守やメンテナンスの際は細心の注意を払う必要があり、作業が極めて大変だった。


図3:放送局などに向けた水晶振動子
東洋通信機が製造したもの。上部のつまみを回すことで周波数を調整できる。日本水晶デバイス工業会(QIAJ)の保管資料。


*3)水晶振動子を入れて、その周囲温度を一定に保つ仕組み。科学実験などでも恒温槽が用いられるが、それは大型の装置である。水晶発振器では数cm角に小型化した恒温槽が用いられる。

*4)ギャップを調整することで、振動周波数を調整することが可能だった。

放送局は、この問題に悩んでいた。そこで目に留まったのが、4MHz同軸ケーブルを使った電話システムに向けて東洋通信機が製造していた水晶振動子だった。この水晶振動子は、水晶板が電極にしっかり固定され、ガラス管に真空封入されていた。機械的に安定しているため、メンテナンス性を高められることは誰の目から見ても明らかだ。これに放送局が飛びついた。「ガラス真空封入したATカット水晶振動子を開発してほしい」という依頼が東洋通信機に舞い込んできたのだ。

ガラス真空封入したATカット水晶振動子。これは、依田氏のお土産だったJames Knight社の1MHz周波数基準器とほぼ同じものだ。隅々までなめるように調査済みであり、すべて頭の中に入っている。「これは、またとないチャンス」。岡野氏は意気揚々、開発に着手した。

当初、開発に着手したATカット水晶振動子の周波数は550kHzだった。水晶板の形状は、James Knight社の1MHz周波数基準器を見習い、それと同じバイコンベックスを採用した。バイコンベックスとは、虫めがねのレンズのような形状で、上面と下面の両方とも凸型に加工したものだ。この形状であれば、中央付近の厚い部分にエネルギーを閉じ込められる。その結果、水晶板の縁の影響を受けづらくなるため、不要な振動モードの発生を抑えられる。極めて、高性能な水晶振動子を実現できる形状である。従って、従来必要だった恒温槽を省ける。

ただし、加工は大変だった。上下両方の曲面の中心軸をきっちり合わせる必要があるからだ。これが合っていないと性能が出ない。そこで加工は、レンズ加工の専門業者に依頼した。もっとも専門業者といえども、ガラス板の加工には慣れていたが、水晶板の加工は初めて。このため、当初は悪戦苦闘の連続だった。なかなか、上下の中心軸を合わせられない。しかし、加工作業をこなすにしたがって熟練度が増していく。この結果、満足のいく特性を得られる水晶板の加工が可能になった。

「バイ」から「プラノ」へ

水晶板の加工では多少苦戦したものの、開発は順調に進んだ。550kHzに始まり、900kHz程度までの水晶振動子の開発は、大きなトラブルもなく完了した。次は、1MHzの水晶振動子である。ここで岡野氏の心に、ある思いがよぎった。「そろそろプラノコンベックスが使えるのではないか・・・」。

プラノコンベックスとは、水晶板の一方の面だけをレンズ状に加工したものだ。上下の中心軸を合わせる必要がなくなるため、加工はだいぶ簡単になる。しかし、大きな問題があった。一方の面しか加工しないため、水晶板の直径が大きくなってしまうことだ。バイコンベックスは、両面を加工するため小型にできる。ただし、周波数が高まれば、それにしたがって水晶板の直径を小さくできる。果たして、周波数がどの程度まで高くなれば、プラノコンベックスに切り替えても、実用的な水晶板の直径で実現できるのか。

その当時、バイコンベックスからプラノコンベックスに切り替える周波数は、理論的に解明されていなかった。従って、世界初の試みになる。岡野氏は、「ダメかもしれないが、いけるかもしれない」と考え、プラノコンベックスを採用した水晶板の振動モード*5)などを詳細に調べ上げた。その結果、バイコンベックスとプラノコンベックスの分岐点が1MHzにあることを理論的に明らかにしたのだ。

プラノコンベックスが使えるのならば、加工はかなり簡単になる。しかも、性能はバイコンベックスと同レベルが得られる。こうして完成したガラス真空封止のATカット水晶振動子を放送局に納入した。機械的にも安定で、恒温槽なしで安定な周波数出力が得られる。評価は上々だった。この結果、放送局向けATカット水晶振動子の仕事を、ライバル企業から根こそぎ奪うことに成功した。

*5)振動モードの調査では、「探針法に基づく水晶振動子の振動姿態の研究」という論文を執筆した、東京工業大学 教授の福与人八氏の指導を受けた。

基礎が役立つ

立ち止まっている暇は、まったくなかった。次に岡野氏のもとを訪れたのは、国内計測器メーカーだった。1965年のことである。「周波数カウンタ装置用に、周波数安定性が極めて高い小型の水晶発振器を開発してほしい」というのである。

その当時、有線、無線を問わず通信機器の需要は急拡大していた。それに伴い通信機器が高性能化し、極めて高精度な周波数カウンタ装置が求められるようになっていた。計測器メーカーの希望に合致する水晶発振器は、米国には存在していたが、日本国内には残念ながらなかった。「世界の檜舞台で活躍したい」。そう考えていた岡野氏は、「日本でも良いものを作ろう」と一念発起し、この国内計測器メーカーの申し入れを受けることにした。

しかし、これが苦難の道の始まりだった、国内計測器メーカーの要求は、1ppbレベル(10−9)の周波数安定度である。材料としての周波数安定度がいくら高い水晶でも、単体ではとても到達できるレベルではない。この目標に到達できる唯一の方法。それは、恒温槽(オーブン)の採用である。恒温槽の中に水晶振動子を入れて、その周囲温度を一定に保つことで、周波数安定性が極めて高い小型の水晶発振器を実現できる。それは分かっていたが、これまで東洋通信機は一度も恒温槽を製造したことがなかった。技術をゼロから積み上げなければならない。しかも、恒温槽を使えば、国内計測器メーカーが望む小型化が困難になる。岡野氏は、目の前に大きな山脈がそびえ立っているように感じた。

極めて険しい道。しかし、歩き出さなければゴールには絶対に到達できない。まずは、使用する水晶振動子の開発に着手した。目標は、「HC-6/Uパッケージに収めること」である(図4)。それには、水晶板の直径を約15mm以内に収めなければならない。前述の放送局向け水晶振動子は直径が25mmもあった。このままでは入らない。

そこで岡野氏は、発想の転換を試みた。ゴールは1MHzの小型で安定した発振器である。まずは、水晶振動子を高周波化することにした。周波数を高めれば、その分だけ直径を小型化できる。そこで、1.33MHzの水晶振動子を製造し、その3倍波(3次のオーバートーン)である4MHzの信号を取り出してフリップフロップ回路で1/4に分周することで1MHzを得る方法を採用した。フリップフロップ回路は、当時実用化が始まったばかりのトランジスタを使うことで比較的簡単に実現できた。水晶板の形状は、もちろんプラノコンベックスである。


図4:HC-6/Uパッケージ
外形寸法は20mm×19mm×9mmである。この中に、円盤状の水晶板が立てて収められている。


これで何とか水晶板の直径は14mmとなり、HC-6/Uに収められた。残るは恒温槽である。とにかく手探り状態の開発である。恒温槽の形状や材質、サーミスタの置き場所などを一つずつ確認し、決めていく必要がある。気の長くなるような作業。しかし、岡野氏の開発グループはあきらめなかった。毎日、深夜まで続く作業の末、恒温槽が完成した。水晶振動子を収めたHC-6/Uパッケージは、冷間圧接技術(コールドウェルド)を用いて、内部を真空状態にして封止した。これを、中央部をくり貫いたアルミ・ブロックの中に入れて周囲にヒーター線を巻き、その周りをグラスウールで包み、ケースに収めることでppbレベルの周波数安定性を達成した。


図5:OCXOの電源投入直後からの周波数特性
恒温槽付き水晶発振器(OCXO)では、電源投入直後から、極めて小さな周波数変化しか許されない。出典:岡野、「水晶周波数制御デバイス」、1995年、テクノ

再現性や経時変化特性もばっちりだった。「1時間後の周波数はどうなるのか」、「1日後の周波数はどうなるのか」、「10日後の周波数はどうなるのか」。国内計測器メーカーは、再現性に関する規格値をこと細かく用意していた。開発した水晶発振器は、この規格値を見事にクリアしていた(図5)。国内計測器メーカーのエンジニアが驚嘆の声を上げたほどだ。

この恒温槽付き水晶発振器(OCXO)は1968年に市場投入された。すると今度は、国内のライバル企業が驚きの声を上げる。「負けてなるものか」。ライバル企業は追いつき追い越せと開発に着手するが、同レベルの周波数安定性や再現性、経時変化特性を実現できない。多くの企業が開発を断念したという噂が岡野氏の耳に入ってきた。岡野氏は、「水晶振動子の形状として、調査しつくしたプラノコンベックスを採用したことがカギだったと考えている。いくらうまく恒温槽の制御をかけても、発振源である水晶振動子が良くなければだめ。ATカット水晶振動子の開発での苦労が生きたようだ」と当時を振り返る。それまでの開発によって身に付けた「基礎力」がライバル企業との差を生んだわけだ。


「振動領域」という概念を作り上げる

ATカットの水晶振動子と恒温槽付き水晶発振器(OCXO)。この二つが岡野氏の代表的な功績である。誤解を恐れずに言うと、同氏の功績は決して派手なものではない。しかし、「現在の水晶デバイス技術の礎(いしずえ)を築き上げた」と言って過言ではないだろう。重要度は極めて高い。

同氏は、バイコンベックスやプラノコンベックスといったコンベックス技術を利用した水晶振動子などの開発で得た経験や知見によって、「水晶振動子の振動領域」という概念を確立することに成功した。この概念は、現在の技術の基礎となっており、さまざまな水晶デバイスに応用されている。具体的には水晶板に設けた金属電極の質量効果によって振動を閉じ込める「トラップモード」や、フォトリソグラフィ技術によって水晶板の周囲を削り取り中央の厚い部分に振動を閉じ込める「メサ構造」、水晶板の中央部だけを薄くして高周波化を実現する「逆メサ構造」などの技術である。

さらに「水晶振動子の振動領域」という概念は、水晶デバイスの小型化手法のヒントになり、加工時における平面度や平行平面度の重要性に気付かせるきっかけにもなった。つまり、東洋通信機とセイコーエプソンの統合後に誕生する「QMEMS」技術の基礎となるのである。

山下勝己(テクニカル・ライター)

(次回に続く)

interview

岡野 庄太郎氏
1931年に神奈川県川崎市に生まれる。1954年に電気通信大学電波工学科を卒業し、同年に東洋通信機に入社。水晶振動子や水晶発振器、OCXO(恒温槽付き水晶発振器)。TCXO(温度補償回路付き水晶発振器)、クロック発振器などの開発に従事。定年退職後は全国水晶振動子工業組合(現在の日本水晶デバイス工業会)の事務局長を務めた。現在は岡野技術士事務所で、水晶メーカーの技術サポートを行っている。社会人時代の趣味は社交ダンス。「欧州や米国の国際会議で開かれるパーティでの人脈作りに役立った」(同氏)という。著書に「水晶周波数制御デバイス」(1995年、テクノ)

QMEMSはセイコーエプソン株式会社の登録商標です。


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