第7回 QMEMS誕生秘話、巻き返しを図る「攻めの一手」を探せ

2013年5月

第7回 QMEMS誕生秘話、巻き返しを図る「攻めの一手」を探せ

林睦夫氏は、極度な緊張状態にあった。

2005年1月9日。林氏は、上司の宮沢要氏 とともに、神奈川県高座郡にある相模線の寒川駅に降り立った。一緒に降りた乗客は十数人。初詣の時期であれば、隣駅にある寒川神社にお参りする人々でかなり賑やかになるのだが、松が明けた9日ともなると人波はまばらとなる。ホームに北風が吹き抜けた。とても寒く感じた。

寒く感じた理由はそれだけではなかった。とても重要な任務を背負っているという緊張感。これが寒さを増長させていたようだ。体の芯が「ブルッ」と震える。「風邪を引いたかな?」。しかし、休憩をとっている暇はなかった。急いでタクシーを止めて、宮沢氏とともに目的地へと向かった。

業界を揺るがす大合併

その1カ月半前の2004年11月末。水晶デバイス業界に衝撃的なニュースが走った。セイコーエプソンと東洋通信機の水晶デバイス事業を2005年10月に統合するというニュースである。両社とも水晶デバイス業界の老舗(しにせ)であり、これまで互いに切磋琢磨しながら、業界を引っ張ってきた。その2社が1つの会社になる。水晶デバイス業界に詳しい人であれば、耳を疑うニュースだった。

この統合話が持ち上がったのは2003年ころだ。それ以降、両社の経営トップの間で、頻繁に話し合いが持たれるようになった。なぜ、「禁断の統合」を目指すようになったのか。その背景には、水晶デバイス業界がさらされていた厳しい経営環境があった。

2001年にITバブルが弾けた。その結果、コンピュータや通信機器の売り上げが世界全体で大きく下落した。それらに搭載される水晶デバイスも、例外なく売り上げがダウン。そこに、新たなライバル企業として、台湾勢がなだれ込んできたのだ。台湾勢の売り文句は「低価格」である。もちろん、高性能品に関しては日本メーカーに、まだかなりのアドバンテージがあった。しかし、コモディティ品の性能には、あまり差がない。このため、コモディティ品が価格競争にさらされ、収益が徐々に悪化していったのだ。

「このままではジリ貧。何らかの手を打たなければ・・・」。こうした思いから、両社は統合を目指すことになった。ただし、「何らかの手」は、守りだけではない。両社とも、統合を機に巻き返しを図るための「攻めの一手」を模索していた。水晶デバイスという同じ分野の製品を扱う両社だが、それぞれが抱える顧客や技術には違いがあり、互いに補間関係にあった。エプソンが守備範囲とする顧客は時計や民生機器。一方、東洋通信機は通信機器や産業用電子機器。技術については、セイコーエプソンは、フォトリソグラフィー技術や微細加工技術を得意としており、東洋通信機は水晶デバイスの基礎理論に精通していた。

こうした両社の強みを掛け合わせれば、きっと「攻めの一手」を生み出せるはず。それは何か。2004年末から2005年10月までの約10カ月間。この間に、斬新なアイデアを生み出し、「統合時の目玉」とする。これが、両社の経営陣が描いていた青写真だった。

稲妻が走る

どんなアイデアならば、攻めに転じられるのか。林氏は正月中、ずっと頭を悩ませていた。なぜなら、「統合時の目玉」を考え出す担当者に、2004年末に宮沢氏から任命されたからだ。「どうしたらいいのか?せっかくの正月なのに・・・」。餅つきも、おせち料理も、初詣も心底楽しむことができなかった。

そして1月9日がやってきた。この日は、セイコーエプソンと東洋通信機の水晶デバイス関連部門のエンジニアが集まり、両社が持つ技術を披露する会が開かれることになっていた。場所は、東洋通信機の相模事業所(当時)。寒川駅からタクシーで10分ぐらいのところにある。セイコーエプソン側の代表者は、水晶事業部の副事業部長の宮沢要氏と開発設計部部長の林氏だった。

実は林氏は、統合時の目玉となるアイデアをまだ考え出せずにいた。焦っていた。だから、余計に緊張していたのだろう。とても寒かったが、手には汗をかいていた。

まずは、東洋通信機側の技術担当者である田中良明氏が、同社の技術を一つ一つプレゼンして行った。水晶デバイスには、戦前から取り組んでいた東洋通信機。それだけに、社内に蓄積された技術はたくさんある。それらの発表を必死にメモを取りながら聞く林氏。

そんなとき林氏のペンがふと止まった。稲妻に打たれたかのような衝撃を感じたからだ。それは、フォトリソグラフィー技術で製造するATカット水晶振動子に関するプレゼンのときだった。ATカット水晶振動子は、コンピュータや通信機器、民生機器などで主に使われる。それを機械加工ではなく、フィトリソグラフィー技術で加工することで、高い精度を確保したまま大幅な小型化を実現しようというのである。林氏は「これを実用化できれば、相当大きなインパクトを業界に与えられるはず」と確信した。

すでに基本技術は確立されている。しかし、まだ実用化には至っていなかった。その理由は、設備投資額にあった。その額が膨大なため、東洋通信機では投資に踏み切れずにいたのだ。千載一遇のチャンスである。セイコーエプソンは業界に先駆けて、フィトリソグラフィー技術を適用した音叉型水晶振動子の量産を始めた企業である。すでに、長野県伊那市の工場に製造ラインが整備されている。「このラインを使えば、量産できるかもしれない」。

東洋通信機が得意とするATカット水晶振動子に関する基本技術。それに、セイコーエプソンが誇るフォトリソグラフィー技術を組み合わせることで、かつてない製品を世に送り出せる。「統合時の目玉」の考案を任された林氏によって、格好のネタが見つかったことになる。「よし、これで行こう」。

帰りは、寒川駅から八王子駅経由で伊那松島駅へと戻った。鉄道が何よりも好きな林氏だったが、「特急あずさ」を楽しむ時間はなかった。いかにして、統合時の目玉に仕立て上げるのか。そのことだけが頭の中をグルグルと回っていた。

本格的に乗り込む

やるべき方向性は決まった。あとは実行に移すだけである。1月21日に、セイコーエプソンと東洋通信機の両社に統合準備室が設けられ、林氏はセイコーエプソン側の技術担当者に任命された。そして2月1日には早くも、単身で相模事業所に乗り込んでいった。ミッションは2つあった。1つは、統合時の目玉を含めた統合後の商品戦略の考案。もう1つは、知的財産権に関する戦略の確立である。

方向性はすでに決まっているとはいえ、ミッションの難易度はかなり高そうだ。しかも、東洋通信機の技術者たちと、たった一人で相対さなければならない。林氏の緊張は高まっていると思いきや、実際は涼しい顔のままだった。実は、東洋通信機の相模事業所は完全なアウェーの地ではなく、かつての仲間がたくさん働いていたからだ。

ここで、林氏の経歴を簡単に紹介しておこう。同氏は、1975年に大手電気機器メーカーに入社した。配属先は水晶事業部。ここで水晶デバイスの開発に一貫して取り組んだ。しかし、そのメーカーが水晶ビジネスから撤退することが明るみに出た1999年。同氏は、職場の同僚たちとともにセイコーエプソンへと転職した。しかし、すべての同僚がセイコーエプソンに移ったわけではなかった。一部の同僚は、東洋通信機への転職を選んだ。つまり、林氏と同じ釜の飯を食べた仲間たちが相模事業所で働いていたのだ。

「昔の仲間に会える」。このことが、林氏の緊張を和らげた最大の理由だった。緊張どころか、逆に楽しみでもあった。初日は、和やかなムードの中で仕事が進んだ。2日目も3日目も。ミッションを1つ1つこなし、統合に向けた作業が順調に進んで行った。

3つの目玉で攻めに転じる

統合を機に攻めに転じる。それに向けて取り組むべきテーマ、つまり「統合の目玉」はまとまった。それは、以下の3つである。1つは、前述のフィトリソグラフィー技術を適用したATカット水晶振動子。「フォトAT」と名付けた。2つめは、東洋通信機が持っていたHFF(high frequency fundamental)と呼ぶ高周波化技術を使った水晶発振器。3つめは、セイコーエプソンが開発に取り組んでいたジャイロ・センサーである。

これらの技術をいかに実用化するのか。実用化に向けた作業は山のように残っていたが、林氏に課せられた「統合の目玉」を考案するというミッションは達成したと言えるだろう。次に成すべきことは、両社の技術者たちに、「統合の目玉」やそれらの開発の進め方、さらには統合後の未来図を周知徹底することである。

またその頃、セイコーエプソンと東洋通信機の水晶デバイス関連の技術者同士の打ち合わせを頻繁に開催した。開催場所はセイコーエプソンの伊那事業所、新宿のオフィス、東洋通信機の相模事業所で交互に行い、打合せに加え懇親会も行いながら相互の理解を深め未来図の共有を進めていった。

一方、打ち合わせの日々を終えて相模事業所に戻った林氏。統合に向けた細かな作業を1つ1つこなす生活に戻った。東洋通信機専務の池田泰彦氏、前述の田中良明氏の全面的な協力もあり仕事は順調に進む。しかし、その中にあって1つだけ大きな誤算に悩まされていた。それは、仕事が順調すぎて、時間を持て余してしまうことだ。相模事業所には単身赴任で来ていたため、そこに通うためにウイークリー・マンションを厚木に借りた。会社が終わって、マンションに戻ると時計の針は、まだ夕方6時前を指している。日がだんだん延びているとあって、辺りはまだ夕暮れ時。「一人で酒を飲んで過ごすにも、時間がありすぎる」。

そこで、東洋通信機の技術者を誘って、海老名や茅ヶ崎の居酒屋で頻繁に宴会を開いた。それでも、時間をつぶしきれない。幸いなことに、マンションの近くに自動車教習所があった。大の鉄道好きである同氏は、どんな場所でも電車で行く。そのため自動車免許証の必要性を感じたことはなかったが、「どうせ時間がたくさんあるので」、教習所に通い始めることにした。ほんの数カ月で、免許証も順調に取ることができた。

「あっ」と言わせよう

セイコーエプソンと東洋通信機の統合に向けた作業が着実に進む中、2005年5月に東洋通信機のエンジニアが、セイコーエプソンの伊那事業所に異動する人事が発令された。まだ統合が完了したわけではなかったが、統合後を見据えた共同開発がフライング気味に動き始めたのだ。林氏は、「やるべくことは決まりエンジニア達も早くやりたがっている。2005年10月1日を待っても仕方なかったので、サッサと始めようということになった」と当時を振り返る。

目標には、2005年10月4日に始まる「CEATEC JAPAN 2005」で開発品を展示することを掲げた。CEATECは、エレクトロニクス業界における日本最大の展示会である。ほとんどの業界関係者が注目するイベントだ。そこに、セイコーエプソンと東洋通信機の統合に加えて、目玉となる製品を展示すれば、業界関係者の耳目を集められるに違いない。新会社発足に花を添えることができるはずだ。ただし、開発期間は5カ月弱。技術者たちは、寝る間を惜しんで開発作業に取り組んだ。

そして遂に、「CEATEC JAPAN 2005」が始まった。その3日前の10月1日には、セイコーエプソンの水晶事業と東洋通信機を統合した新会社「エプソントヨコム」の発足がアナウンスされた。来場者の注目度はがぜん高まっている。エプソントヨコムのブースには、例年に増して多くの来場者が集まっていた。

そのブースの中央部には、「統合の目玉」であるフォトATが展示されていた(図1)。フォトATの製造プロセスを紹介するパネルとともに、非常に小さなデバイスが鎮座している。それが「統合の目玉」となるATカット水晶振動子「FA-128」だった。外形寸法は、2.0mm×1.6mm×0.5mmと小さい。フォトリソグラフィー技術を利用することで、従来品に比べて大幅な小型化を実現していた。

フォトAT担当の説明員に、来場者の質問がひっきりなしに飛んでくる。来場者は、大きなインパクトを受けているようだ。その様子を見ていた林氏は、想像以上の手応えを感じた。エプソントヨコムは、確かな一歩を踏み出した。

その後、エプソントヨコムは矢継ぎ早に新製品を市場に投入。そして翌年の「CEATEC JAPAN 2006」では、統合の目玉として考えていた残る2つの技術であるジャイロ・センサーとHFF水晶発振器も展示した。このとき初めて、統合の目玉を集約するキーワードとして「QMEMS」が使われた(図2)。その年のエプソントヨコムのブースは「QMEMS」一色で埋め尽くされた。


図1:「CEATEC JAPAN 2005」で展示されたフォトAT


図2:QMEMSについて講演する林氏
「CEATEC JAPAN 2006」において開催された講演会で、「QMEMS」の詳細について語る林睦夫氏。講演のテーマは「エプソントヨコムのQMEMS技術とその応用」だった。


いま一度、原点に立ち返ろう

セイコーエプソンと東洋通信機の事業統合は、林氏の活躍などもあり、成功裏に完了した。林氏は、「別の事業統合を経験したわけではないので正確なことは分からないが、これほど問題が発生しない事例はほかにはないのではないか。すべてが非常にスムーズに進んだ」と当時を振り返る。

統合を機に攻めに転じ、水晶デバイス・ビジネスは順調さを取り戻した。しかし、それは長くは続かなかった。2008年末に思わぬ事態に襲われたからだ。いわゆる「リーマン・ショック」と「円高」である。これをきっかけに、エレクトロニクス市場は低迷し、日本国内の水晶デバイス業界は再び困難に直面している。しかも、シリコン(Si)材料を使ったMEMSデバイスという新しいライバルも現れた。

この困難をいかにして乗り切るべきなのか。林氏は、こう指摘する。「過去6話のQMEMSストーリーを読んで感じたのは、いずれの技術者も、水晶材料の基礎を理解し、それを突き詰めることで新しい市場を開拓してきたということだ。いま直面している困難は、きっと小手先だけの改革では乗り切れない。いま一度、原点に立ち返り、水晶材料をより深く突き詰めるべきではないか。それができれば、水晶デバイス・ビジネスは今後も繁栄していくだろう」(同氏)。

山下勝己(テクニカル・ライター)

interview

林 睦夫氏
1975年4月に電気機器メーカーに入社し、水晶デバイス部門に配属される。その年の12月に東京工業大学精密工学研究所の福与人八教授に師事し、水晶に関する基礎理論を約2年間学ぶ。その後、水晶発振器などの開発に一貫して従事。しかし、同社が水晶事業からの撤退を決定したため、1999年11月にセイコーエプソンの水晶デバイス事業部に転職。温度補償回路付き水晶発振器(TCXO)の開発、商品化を成功させた後、2005年1月にセイコーエプソンと東洋通信機の統合作業を担当する。2008年6月にはエプソントヨコム 常務取締役(営業担当)に就任。2012年6月にセイコーエプソンを定年退職。現在は、半導体後工程受託メーカーで活躍している。趣味は、鉄道。「鉄道が敷かれているところであれば、国内だけでなく、世界どこでも鉄道で行く」(同氏)。このほかオーディオやカメラの造詣も深い。

QMEMSはセイコーエプソン株式会社の登録商標です。


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